3, 20, 2010徳島レーシングのこと・中

それは2年目の暑い暑い夏の日の出来事であった。

簡単に説明します。いまスズカで行われているシマノロードを25年ほど遡っていくと、「神鍋カップ!サンツアーロード」という大会にたどり着く。ようやくロードレースというものをやりたいアマチュアが増えてきたという時代だったのだと思う。だって選手がいないと大会になりませんからね。

このレースイベントはのちに開催場所が変わり、さらにはサンツアーというブランドがシマノにとって変わり今日に至るのだが、修善寺のチャレンジのような(現在の)JCFが主催するのと違い、民間企業の冠大会であるというところが画期的であったと思う。そして、レースという言葉自体にエキサイトするタチの徳島レーシングは、あっちゃんはじめ数名がこのサンツアーロードに前年から参加していた。そしてその年は、ほんならチームロードに出てみようではないか、と元気のいい順に4人が選ばれて、その中に僕もいた。

けっこう大勢での遠征であったとうろ覚えしているのだが、実はよくわからなくて、たぶんそれはレース自体がかなりエキサイティングだったからだと思う。つまりそれ以外のことはどうでもいいくらい、そのレースは面白かったのだ。

1分の時差スタート。いつもの練習どおり隊列を回す。レース中盤、先行するチームが前方に見え、あとさき考えず追いつく。こういうときの徳島レーシングはめっぽう速い。そして相手チームに暴(ああ、残念ながら中略、とても書けません。ごめんね)

と、規定周回を走りきり、無事にレースは終了。結果、総合3位と輝かしい成績を収めるに至り、その賞状は今もナカニシサイクルに掲げられている。30年近くにわたり飾っていただけるということは光栄です。ありがとうございます。そして本人達にしてみれば、なんといっても、遊びでロードレースをやっている日本中のチームで、自分たちより速いチームは2チームしかない、というところが最高に気分よく、ここから一気に競技熱が高まったのだった。この年から数年間、毎年国体に誰かが選ばれたと思う。まさに県下最強の実力とキャラクターであった。

いま、シマノスズカロードでその順位を収めようとすると、それはそれはものすごい努力が必要だと思う。戦術も求められる。相手チームの情報や練習方法や得意な戦法なども研究するだろう。機材が勝敗をわけることもあるかもしれない。そんな緻密なレースできちんと結果を残すチームには敬意を表するにやぶさかでないし、順位を問わずチャレンジする姿勢はいつも、どのチームも貴いと思う。だがしかし、あの夏の徳島レーシングほど、楽しく強かったチームは他にないとも思う。練習もレースもその道中も、常に爆笑か悶絶寸前かどちらかであって、全ての瞬間が楽しかった。そして多分、後に続いた人たちもそんな楽しさがあったから徳島レーシングで走ってくれたのではないだろうか。

今年、徳島レーシングは実業団登録チームとして復活する。こころよりおめでとうを申し上げます。がんばってください。あの頃のような素敵なチームとなってほしいと思います。

僕はその後、落車や進学など色々あってしばらく乗らなかったり徳島を離れたりしたのだが、ちょうど入れ替わりで後輩くんたちが活躍をしてくれた。彼らは徳島レーシングで鍛えられた三味線を武器に今でも各方面で活躍中であり、離れても裏切ることは絶対なく、そんなことも徳島レーシングの一員であったことをよかったと思える大きな要素なのだ。

そして、徳島レーシングで身に付いた貴重な「なにか」は進学後に学連で走るにあたり見事に開花し、これ以上ないくらいの成果を与えてくれた。いまも学連のWEBサイトには当時の1kmTTの記録が掲載されている。まあ今思うと、もう少しがんばれたかもしれないかもしれないですね。その後、選手としてはさりげなく引退し、20年を経て美容と健康のために夕焼け眉山クラブでなんとなく復帰してしまいましたとさ。

ちなみに、四半世紀前の徳島レーシング黄金期第一期にナカニシさんちで生まれた格言が「講釈たれんと、はよう行てこい」であり、僕らが店先で講釈たれていると「ただいま〜、あっ、こんにちは」と頭を下げてくれた男前のぼっちゃんが、ひろくんである。あきちゃんも、かわいかったですね。

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