3, 19, 2010徳島レーシングのこと・上

今を去ること約30年。中学生だった僕は10段変速のドロップハンドル車を買ってもらい、週末ごとにあちこちと遠乗りに出かけていた。

これは、今をときめく徳島Rのいちばん最初のお話。

さて10段といっても、前2枚の後ろ5枚なのであって、今は後ろだけで10枚だそうです。もちろん僕はこれからもずっと9枚です。だが、それはさておき当時は後ろ3枚というのも当たり前だったので、中坊にしてみたら宝物のマシーンである。嬉しいあまりにどこまでも行く。香川県まで行ってきた、などというと両親祖父母とも驚いたり喜んだり。そんなのがまた愉快だったし、自分は自分でなにかエラクなったように思ったりして、本屋でちょっと再スポなんかを「サイクリストらしく」買ってみたりするのだった。

そうすっと、その中には全国の自転車屋さんが広告を出していて、県内では唯一、ナカニシサイクルさんだけが掲載されていた。ズノウ・ワンゲル・ニシキ・ビバロと書かれたその広告はなんとも本格的な魅力いっぱいで、「…ここへ一度いかねばなるまい!徳島で自転車に乗るならば!」と純真な少年のハートは激しく揺り動かされたのである。

しかし、13歳のボクチャンには「本格的自転車専門店」というのは高い高い敷居なのであって、一度入ったらタカイジテンシャ買わないと出てこれないんじゃないか、とかコワイヒトいたらどうしよう、などといらぬ心配が次々わき起こってくる。そこで自転車好きな友達が集まり放課後に秘密の会議なんかして、ナカニシサイクル襲撃訪問大作戦を、計画を立てるのである。そして、じゃあ「ちょっと見せてください〜〜」と言って覗いて、恐そうだったら逃げて戻ろう、でも一人で逃げるのはナシね、と合意し、意を決してナカニシサイクルの重たいガラス戸を開けるに至る。するとそこには。

生まれて初めて見る、ショーケースに入ったカンパスーパーレコードに衝撃を受け、イタリアンカットラグのキレイなフレームに心奪われ、「おおおおおおおおおおお」と、すっかりお上りさん状態の中学生数人は呆然。すると、思いがけずお店の方が「自転車、好きなんか。ほうかほうか」的に声をかけてくれた。今で言うとカリスマ店員に話しかけられたJKのようなものか(←よくわからんが)。ただ僕らはもう、その時点で「キヲツケ」である。なんたって本格的自転車専門店が受け入れてくれたのである。感激である。今から思うと、それが現社長であったか先代であったかが定かでない。だがまさに、この瞬間が僕の長い長い夕焼け眉山的人生の始まりであった。

そのころ、僕はランドナー風の自転車に乗っていて、ロードレーサーを間近で見るのははじめて。雑誌でしか見たことのない「チューブラー」はセンセーショナルにもほどがある。高校に受かったらロードレーサー買ってちょうだい!と親に頼むに時間はかからなかった。ここで時代背景を簡単に説明すると、1.自転車に乗っているのは競輪選手になるか日本一周するかの二者択一で、その中間は理解されていなかった。2.だがちょうど中野浩一が世界戦を連覇しはじめていて、新聞にも自転車競技の記事がときどき載るようになっていた。3.ロード「バイク」という呼び名は全くなかった。バイクといえば単車であって、ロードといえば「レーサー」であった。レースしないロードなどあり得なかった。4.再スポはあったが、バイ蔵はまだなかった。5.レーパンはライクラでなくウールこそが最高とされていて、それはモケパンと呼ばれていた。

さあ、そんなわけで自転車のために高校受験を突破した僕は、貯金はたいたジューマンエン握りしめてナカニシサイクルへダッシュする。フレームはズノウエステート¥35,000の紺色、部品は前々から社長さんに相談に乗っていただいて決めた仕様。納車の日、作業完了は閉店時間を過ぎてしまっていたが、「おまえ、できるまで帰らんのだろ」と笑いながら組み上げてくださった。そして居合わせた体格のいいオニイサンに「この子、いっぺん練習に連れて行ってやってくれ」とお願いまでしていただいたのだった。

このオニイサンが、てっちゃんである。てっちゃんは、「ほんなら明日、学校が終わったらどこそこのナニナニに来い」と言ってくれた。ほんで言われた通りに行ってみると、そこにもう一人いたのが、あっちゃんだった。

そしてこの、てっちゃん&あっちゃんが実は徳島レーシング一期生なのだった。

「ほな行くぞ」と勝手の分からないまま、日の峰へ連れて行かれる。なんか最初からアタックかかりまくりで、でもちぎれるとはぐれる、道わからんし(-_-;)と思い必死で付いていく。結局、なんとか最後まで付いていけて、その日の練習は無事終わり。「おまえ、日に日に来いよ」ということになってしまった。

さて。

次の日にナカニシサイクルへ遊びに行くと、奥さんが「きのう、速かったんやってな〜、すごいで〜」と声をかけてくれる。社長さんも「おまえ、やるでないか」と褒めてくれる。てっちゃんが早速そのように伝えてくれたらしい。高校一年生の僕はもう大感激で「えっ、ああ、いや〜、はい、ガンバリマス」というのが精一杯だったように覚えている。そんで、嬉しいものだから、本当に日に日に練習に行くようになる。だからみんな揃ってあっという間に速くなっていた。実際、僕らはナカニシさんに褒めてもらえるから(あるいは褒めてもらいたいから)頑張れたのであって、そのぐらい当時は(今もですが)色々な面で手厚くサポートをいただいていた。そうでなければ誰があんなしんどい練習を好き好んでするかいな。だから、選手はスタートラインに立つとき、自分一人の力でそこにいると思い上がってはならないのだ。ほんでまあ、そこから徳島レーシングとしての活動がいよいよ本格的に始まり、まもなくして意外なまでの急展開を迎えるのであった。

そのころ、県内ではいくつかのショップチームが活動していて、割と気軽にトラック競技にも出場していた。でも徳島レーシングは発足したばかりで全てが未知の世界。ただ気に入らないのは、たとえば県内選手権など地元紙にリザルトが掲載される大会があると、スポーツ面のはしっこには入賞した「徳島レーシングじゃない」チーム名が誇らしげに載っているわけである。徳島レーシングとしてはココを一発狙ってみよう、ワシラこそ最速と天下に示そうではないか、という話が持ち上がると同時に一瞬でまとまり、ぽんぽんぽーん!と僕には高体連貸与競技車が与えられることになってしまった。えっトラックレーサーくれるんすか!いや、あとで返してもらうけんな、大事に乗るんぞワカッタカ。

そうして徳島レーシングのトラックデビュー戦は徳島県選手権大会。全員参加の1kmTTにとりあえずエントリーした。まあよくわからんけども、とにかく2周半走ってみよう。スターターはナカニシさん。いまの審判長ではないよ。その父上なのだから贅沢な人配である。しかし、いざピストルが鳴ると、はじめて固定ギアで走る1000メートルは想像より遥かに長く、いつまで踏んでも終わらない。それでも悶絶しそうになりながら何とか走り切ると、そこからさらにまた悶絶しそうな違う種類の苦しさが新たにやってきて、芝生のうえへ倒れ込んでのたうち回る。ああ、もうイヤ、なんかよくわからんけど、なんじゃこのエラさはオイ、うう〜〜(-_-;)二度と走らんぞ〜(@▽@;)と思う。覚えているのはただそれだけで、僕のほろ苦いデビュー戦はなんとなくのうちに終わってしまった。

いや〜、もうタイムなんざどうでもいい、よくがんばったオレ!あとはお弁当食べて帰ろっと♪まあけど、せっかく来たからみんなで競輪場を探検でもして♪なんか〜、4速とかポイントとかルールよくわからんよね〜♪おっと、もう表彰式ですよ、あっちゃん、見に行くっすか〜♪

と、なんか名前呼ばれてますか僕(??)

えっ、ウソ、マジ、ひゃっほう♪1000mTT高校の部3位入賞である。なんと人生初セントラでトロフィーもらってしまった♪実はそもそもスポーツで賞状もらうのが初めてである。うおおお〜、ありがとうございますナカニシさん&徳島レーシングの皆さんのおかげですぅ〜〜舞い上がっていいすか〜(^o^)

と、ほろ苦いはずのデビュー戦を歓喜のまま通過してしまった自分はもとより、他の皆さんも揃って好タイムをたたき出したようで、そのうえお調子者が勢揃いの徳島レーシングはもう止まらなくなってしまう。また書きますが、とにかく徳島レーシングはこれを境に表彰台の常連となり、国体選手多数輩出、セントラ的には73秒は当たり前で、75秒かかると容赦なく「遅っ」と言われるてーへんなチームとなるのでした。

そして、そんな徳島レーシングがさらに舞い上がる記念すべきレースへとお話は続く。それは翌年の暑い暑い夏の日のことであった。

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