11, 2, 2010ちくわの穴・序章「私とフィッシュカツ」・上

奇跡のカツが生まれるところ

小松島の海上保安庁から市役所へと向かう「八千代橋」を渡ったところに、あっちゃんのちくわ屋さんはある。この物語は一部フィクションとネタです。

あっちゃんがちくわ屋さんだということは風の便りに聞いていた。あっちゃんは高校卒業後に国家の秩序と安全を守る公務に就き、僕は学連で走りたかったので西日本のとある京都産業大学へ進んだ。在京大学を選ばなかったのは練習がきつそうだったからである。(が、京産大もじゅうぶんきつかった←誤算)

僕は3年次の山梨国体を最後にいったん競技生活に区切りをつけ、卒業後は普通のサラリーマンとなった。結婚式にはもちろんあっちゃんを招待した。そしてキャンドルになかなか火が着かなかった

引退から20年が経った。その頃僕はちょっとした怪我のリハビリがうまく進まず桃食っていてスポーツとは無縁の生活を送っていた。「秋田町に青春を賭けていた」というのは真っ赤なデマですから。

ある日、出来島のユニクロでパンツを買おうとうろうろしていると、ちくわ屋さんになったあっちゃんがいた。久しぶりだった。あっちゃんは「また一緒に乗りまへんでか」と言ってくれたが、僕は「うん、そのうち」とお茶を濁した。ま、お茶は濁っている方が値打ちがあるとも言うしな。

いや、それはともかく、あっちゃんと一緒に乗るなどという荒行は病み上がりの身には自傷行為と思えた。はっきり言うと、びびったのである。僕の知っているあっちゃんは、それはもう果てしなく強かったのだ。だから、あんなしんどい練習したら「死ぬ」と反射的に思ってしまった。ところが実際には当時のあっちゃんは十代の頃よりさらに強かったらしい。ありえん。逃げて正解である。

またしばらくが経った。

やがてハーチャンが生まれるのだが (ハーチャン誕生は物語に直接関係はないです念のため)、なんかカラダが調子悪い状態では子育てもままならない。僕はちょっと焦っていた。そしてなんとなく、以前にあっちゃんが言ってくれた「また一緒に乗りまへんでか」を思い出していた。

ついに僕は意を決して徳島レーシングの門を叩いた。歩いたり走ったりするより、慣れた自転車でカラダに喝を入れようと思ったのだ。というか、自転車ならラクできそうじゃないですか。でも、名門・徳島レーシングがこんなへろへろの自分を迎え入れてくれるかは不安であった。えーと、あ、あの〜。

「また乗りたいんですけど、ゆ、ゆっくりでいいんですけど」と打ち明ける僕にナカニシ社長は「ほんなら、あっちゃんに頼んでみ!日に日に眉山に登っとる。ほら、おまはんが一緒ならゆっくり行ってくれるわ」と勧めてくれた。かくして、(詳細は忘れたが) 僕は次の日からあっちゃんに弟子入りをした。師匠と呼びはじめたのはこのような経緯からである。

これが今から5年ほど前のことであった。あっちゃんはそれから雨の日以外毎日午後3時に迎えに来た。ちくわ屋さんは昼過ぎに大体の仕事が終わり、フリーランスとなっていた僕は時間などどうにでもなるので都合が大変よかった。

が、言うまでもなく自転車競技は少々なにかをどうしたところでしんどくなくなるわけでない。20年の空白はとてつもなく大きかった。僕は運動しないと痩せる体質なので、タイツを履くと生地があまっていた。ありえん。20分以上かけてようやく上まで行くと立ってられなくてしばらく横になって休んだ。ありえん。これが何日か続いた。

やっぱりしんどいわ、無理ですよう、と思ったが、次の日も、その次の日も午後3時にはうちの前にあっちゃんが来た。「光合成にいくで〜」と。

そんなある日。重なるオーバーワークで食欲も冴えず、ああ、こんな部活みたいな、でも部活だったらやめれるよね、これはやめれん(=あっちゃんからは逃げれん)な…雨降らんかな(-_-;) と乗り始める前よりもやつれ、悶々としている僕にあっちゃんはパンパンにふくらんだ大きなレジ袋を差し出した。

食え。」それが○産蒲鉾(まるさんかまぼこ) のフィッシュカツとの出会いであった。

<つづく>

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